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更新日:2023年9月25日
令和5年(2023年)は、奄美群島が日本に復帰して70年の節目の年です。
あの時代に何があり、これからの未来を生きる子どもたちに何を伝えていくべきなのか、一人ひとりが考える機会になれば幸いです。先人たちの想いや、復帰運動の意義を後世に語り継いでいきましょう。
(ページ下部に復帰運動の概要を掲載)
昭和16年に開戦した第二次世界大戦では、奄美群島の各地からも多くの方々が招集され、戦死を遂げています。
昭和20年には奄美大島でも名瀬の街が大空襲を受け、市街地の90%余が消失する事態となりました(昭和20年4月20日)。また、昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された同じ日、赤木名が爆撃(空襲)を受け、防空壕に避難した住民の40名が犠牲となっています。
昭和20年(1945年)8月15日に戦争は終結しましたが、昭和21年2月2日、米軍政府により西諸島全域に対する軍政布告が公布されたことで、北緯30度以南の南西諸島は日本から行政分離され、奄美群島は米軍の統治下におかれました。
これにより、日本の本土と奄美は自由な渡航が不可能となり、米軍からの配給物資や予算配当も不十分だったため、さまざまな物資が不足し、奄美の人々は困窮していました。そのため、北緯30度線に近い口之島や中之島を拠点とした密貿易が行われたり、島づたいに「密航」という手段を使う人々もいました。
昭和26(1951年)年1月、ダレス国務長官を団長とする対日講和使節団が来日し、日本政府との間で講和条約の交渉が始まります。
このころから日本復帰運動が全郡的な広がりをみせはじめ、奄美大島日本復帰協議会が発足し、郡島民(14歳以上)の99.8%が署名したという署名活動や、合計で27回開催された集会活動、本土在住の奄美出身者たちによる陳情活動などが行われました。
昭和27年4月28日対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効され、日本国の主権が回復しましたが、北緯29度以南の南西諸島は米軍政府の施政権下におかれました(痛恨の日)。同年8月1日、泉芳朗は高千穂神社で日本復帰を祈願した断食を5日間実施。この断食
による復帰運動は、郡島民にも広がりをみせます。
昭和27年10月23日、重成鹿児島県知事が復帰関連の調査で来島し、到着の名瀬港をはじめ、奄美地方庁までの沿道は、「歓迎・重成知事」や「即時鹿児島県大島郡復活」等のプラカードを掲げた大勢の群衆で埋まりました。この歓迎の様子からも、島民がどれほど日本への復帰を望んでいたかが垣間見れます。
昭和28年8月8日、米国ダレス国務長官が「奄美群島を日本に返還する」旨の声明を発表、午後8時頃奄美の新聞社がその情報を入手、号外ニュースとして各地に知れ渡ります。翌日の新聞は大きな見出しでこの「ダレス声明」を報道しました。8月9日の夜には、「ダレス声明感謝郡民大会」が名瀬小学校の校庭で開催され、1万5千人もの市民が提灯や感謝のプラカードや、のぼり旗等を持って詰めかけたとのことです。
そして、昭和28年(1953年)12月24日の夕方、日米間で奄美群島返還協定に調印が行われ、翌日の12月25日午前0時、ついに奄美群島は悲願の日本復帰を果たしました。
郡島民をはじめ、全国各地の奄美出身者達が一丸となった組織的な署名活動や、断食活動など、「非暴力」「無血」で達成した奄美群島の復帰運動は、世界的にも類例を見ない活動として高く評価されています。
今年は奄美群島日本復帰70周年。
この機会に奄美の歴史や当時の復帰運動について改めて見つめなおし、先人達の想いや一致団結する大切さ、そして平和の尊さを後世に語り継いでいきましょう。
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