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更新日:2013年3月20日

文化財・史跡案内

その他の文化財・史跡案内

柏有度(かしわ ゆうと)の墓碑、石灯籠

柏有度(かしわ ゆうと)は、奄美市名瀬知名瀬集落の出身で、奄美諸島が薩摩藩に統治されていた時代(江戸時代平行期)の末期に生きた人物です。

薩摩藩が奄美諸島で展開した過酷な糖業政策の中で製糖能率を向上させるべく従来の製糖圧搾車の改良に苦心を重ねました。そして圧搾する木製の輪を鉄製に改良することに成功しました。(鉄輪車)

柏有度のこの発明により、製糖能率が飛躍的に向上しました。柏有度の功績は長く人々に語り伝えられ、明治時代に追賞されて知名瀬の墓地に石灯籠が建てられました。

また、有度は新しい産業振興にも強い関心を持ち、各種の柑橘類やバンシロウ(グアバ)は、彼が中国から持ち帰り、広めたものであると伝えられています。

また、薬草の栽培、竹林の造成、龍郷町屋入の銅山発見の端緒をつける等、産業振興に対する見識の広さと行動力には目を見張るものがあります。

「南島雑話」の著者・名越左源太は「有度ト云者ハ珍敷雅人ニテ書(諸)物又ハ書(諸)人ノタメニ成」と薩摩藩有数の教養人であった、と評している。

柏有度は天保4年(1833)巳6月9日、名瀬から小さな舟に乗って知名瀬に帰る途中に漂流し、行方不明となった。

柏有度が発明した「鉄輪車」は、奄美市立奄美博物館に展示しています。


柏有度の肖像画


柏有度発明の鉄輪車(鉄輪の砂糖黍圧搾車)


柏有度の墓碑と石灯籠(名瀬知名瀬)

名越左源太(なごや さげんた)の流謫跡(奄美市名瀬小宿)

名越左源太(なごや さげんた)時行(ときゆき)(時敏とも名のり、後に泰蔵と改名する)は、薩摩藩の番頭兼御側用人・小姓組番頭兼御軍役奉行・社寺奉行・大番頭などを歴任した上流の士でした。文武両道にすぐれ、和歌や書画のほか、医術や本草学にも通じていた教養人でもありました。

文政2年(1819)に生まれ、明治14年(1881)6月16日、62歳で死去。

嘉永2年(1849)に起きた薩摩藩のお家騒動(高崎崩れ、お由羅騒動)に連座した責任で、嘉永3年(1850)~安政2年(1855)まで5年間にわたり流刑に処せられ、奄美大島の小宿集落に謫居していました。

流刑中の名越左源太に嘉永5年(1852)、「嶋中絵図書調方」の役目が命じられました。そして奄美の自然や生活・文化について、図解民俗誌を残したのです。これが「南島雑話」です。

左源太には二男・二女の子どもがいました。長男の時成(ときなり)は、慶応元年(1865)2月、第一回薩摩の英国留学生となり、三笠政之介と変名し、洋行、翌年の7月に帰国します。その後戊辰の役にも参加します。明治初期には、奄美大島に居住、大島郡伊津部村の武實三の娘・ヨシマツと結婚し、後に鹿児島に戻り、二男二女の子どもをもうけています。

「南島雑話」は、奄美大島の人々の暮らしぶりを衣・食・住・生業・冠婚葬祭・信仰・習俗等にわたり詳細に記録しています。また、動植物を含む自然環境にも関心を示し、詳しく描かれています。「ルリカケス」や「アマミノクロウサギ」等の貴重な動物も図解しています。

「南島雑話」という名称は、総称名です。鹿児島大学附属図書館所蔵本は、「南島雑話・1~5」の5巻で構成され、奄美市立奄美博物館所蔵の写本は、平成3年1月に永井昌文氏から寄贈されたもので、「南島雑話・全」、「南島雑話附録・全」、「地理纂考・通昭録・南島雑記」、「大嶹竊覧・大嶹便覧・大嶹漫筆」、「川辺郡七島記」の5巻で構成されています。ほかに東京大学史料編纂所所蔵写本、鹿児島県立図書館所蔵本等が確認されています。

奄美市立奄美博物館所蔵の写本は、奄美市指定文化財として大事に保管されています。

また、名越左源太時行の子孫が大事に保管していた「南島雑話下書」及び「名越左源太関係史料」(日記や書簡類)も平成13年(2001)4月に寄贈され、奄美博物館に保管されています。

「南島雑話」の中の1ページ


名越左源太の肖像画


名越左源太の流謫跡地(名瀬市小宿)


名越左源太が描いたとされる「南島雑話」

白糖工場跡、蘭館山

江戸時代の末期、黒糖の値段が下がってくると、薩摩藩は白糖製造を計画します。

薩摩藩は、英国人の技師2人(ウォートロスとマッキンタイラー)を招聘し、奄美大島の4箇所に白糖製造工場を建設しました。

瀬留(龍郷町)、金久(名瀬市)、須古(宇検村)、久慈(瀬戸内町)の4箇所に建設されましたが、台風の被害や燃料の薪の不足等が原因で5年以内で閉鎖されました。その跡地には今でも使用された耐火煉瓦(COWEN、STEPHENSON等の銘)や建築用の煉瓦(凹のある)の破片が残っています。

煉瓦技師のウォートロスは後に、英国の商人グラバーの紹介で大阪造幣寮の建築や銀座(東京)の煉瓦街を設計したり、全国的な活躍をし、アドベンチャー・アーキテクトとして有名になりました。


凹のある建築用の煉瓦


耐火用の煉瓦

丸田南里(まるた なんり)の墓碑


丸田南里の墓碑

丸田南里(まるた なんり)は嘉永4年(1851)名瀬で出生。

14歳の時に英国の商人グラバーに随行して英国に渡った、と言い伝えられています。明治8年(1875)先進諸国から帰郷後、有志に呼びかけて黒糖自由販売運動を全島に広めていきます。明治11年(1878)には黒糖販売を独占していた「大島商社」を解体させ、砂糖の自由販売を勝ち取りました。また、島民に自由性や学問尊重の気風を醸成させました。

明治初期の奄美大島で「生活改善」や「自由・平等」を叫び、奄美の黎明近代化に大きな貢献を果たしました。

明治20年(1887)、36歳で亡くなりましたが、彼の功績は現在も広く語り継がれています。

観音堂跡地

薩摩藩統治下時代、代官所(仮屋)は数回にわたって交互に赤木名(笠利町)と大熊(名瀬市)とを配置替えが行われました。寛政13年(1801)に赤木名から名瀬に代官所が移された際、それに伴って観音堂も移されるものと思われていましたが、赤木名からなかなか移されませんでした。

文政2年(1819)にようやく赤木名から名瀬の伊津部に観音堂が移されました。ご神体の観音坐像と弁財天坐像は、現在大熊の龍王神社に安置されており、平成10年9月に市指定文化財となりました。


伊津部の観音堂跡地(現・永田墓地)

大熊龍王神社、観音堂


大熊龍王神社・観音堂に安置されている坐像

おがみ山

名瀬の神山としてシンボル的な存在の山です。

山の中腹には「山神の碑」が建てられており、旧暦1月16日には、猟をする人や山仕事に関係する人達が集まり、祭りを行っています。

山の頂上付近には、昭和28年(1953)奄美の日本復帰を記念した石碑が建てられています。近くには「復帰運動の父」と呼ばれ、奄美大島日本復帰協議会議長を務めた泉芳朗の胸像や詩碑も建立されています。

また、この山には各界で活躍した人の胸像や各種記念碑等が建立されたり、各種樹木、草花が植えられ、公園化されています。


山神の碑


横綱朝汐昇進記念碑


昭和天皇の御野立記念碑(昭和2年)


豊島榮翁の胸像


復帰記念碑


泉芳朗の詩碑


泉芳朗の胸像


谷村唯一郎の胸像

小湊厳島神社

ご神体の仏像は、寛政3年(1791)、古見方(こみほう、地方名)の筆子(てっこ、役職名)の恒雲(つねうん、人名)が寄進した木彫りの坐像(木造りの十五童子弁才天像)。奄美市の指定文化財となっています。
小湊集落では、この神社にお参りをすると子宝に恵まれる、との伝承があります。

この神社は当初は観音寺でした。明治初期の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)によって観音寺は廃止され、現在の厳島神社となりました。

境内の石灯籠は古見方の与人(よひと、役職名)の貫悦(かんえつ、人名)が、手水鉢(ちょうずばち)は覇仁志(はにし、人名)が寄進したものです。


木彫りの坐像(十五童子弁才天像)


石灯籠


手水鉢 

島建て石

小湊集落の背後(南側)の山頂に2個の大きな石があります。

沖縄から2人の兄妹が浜に流れ着き、その石を抱えて山頂に登り、集落の中央に住まいを定めた、という伝説があります。それから小湊の集落が始まったといわれ、兄妹の住まいを按司屋敷(あじやしき)と呼び、その前に「マー」と呼ぶ広場があります。

「マー」と呼ぶ広場は、奄美の他の地域では「ミャー」とか「ミヤ」等と呼ばれ、集落の祭りや行事等を行う神聖な場所です。

奄美では集落の始まりと関わった自然石を「イビガナシ」等と呼んで祀っている集落が多い。

集落中央の「ミャー」と呼ばれる広場の一角に置かれ、祀られている場合が多い。

モーヤ墓

沖縄の門中墓に似た葬制をもった一族の集団墓が奄美市名瀬小湊集落に3基存在しています。

講墓(こうばか)とも呼び、「ハアータリ(赤中)講」、「ナーマ(中間)講」、「ホロ(保呂)講」の三つがあります。

旧暦の9月か10月にある庚・申(かのえ・さる)の日には、「カネサル祭り」と称した祭りが行われる。この日にはお墓参りをして、墓の掃除をしたりします。

隣の名瀬勝集落には「中間講」、西田集落には「樽川方祭禮・・・・・」と記銘された講墓が残っています。


ハア-タリ(赤中講)


ナーマ(中間)講


ホロ(保呂)講

小湊・フワガネク(外金久)遺跡

平成9年(1997)の奄美看護福祉専門学校の拡張工事に伴う緊急発掘調査、及び平成12年度から国・県の補助事業を導入した遺跡範囲確認調査によって、遺跡の概要が次第に明らかになってきました。

7世紀頃の遺跡であると判断され、大量のヤコウガイ、貝製品(貝札、貝匙等)、鉄、兼久式土器(かねくしきどき)等が多数出土しました。

当時の生活を知る上で、また当時の交易、流通等を研究する上で非常に貴重な遺跡として国内外の研究者からも注目されている遺跡です。

出土遺物の一部は「発掘された日本列島展‘99」に出品され、国内数カ所を巡回しました。

平成22年(2010年)8月、国指定の文化財(史跡)となりました。


ヤコウガイで作製された貝匙


イモガイを切り取って模様を刻んだ貝札

浦上・有盛神社

壇ノ浦の戦い(1185)で源氏に敗れた平氏の残党が落ち延びてきた、という伝説が奄美各地に数多く残っています。

平行盛(たいらのゆきもり)、平有盛(たいらのありもり)、平資盛(たいらのすけもり)は、最初は喜界島に逃れ、後に大島に渡ってきた。行盛は龍郷町戸口に、有盛は奄美市名瀬浦上に、資盛は瀬戸内町加計呂麻島の諸鈍に居を構えて、家来を各地に配備して源氏の追随に備えていた、との伝承があります。

この3箇所の地には、3人を祀った神社が建立されています。行盛神社(龍郷町戸口)、有盛神社(名瀬市浦上)、大屯神社(おおちょん神社、瀬戸内町諸鈍)がそうです。

また、笠利町の蒲生崎、龍郷町の今井崎等奄美各地に平家伝説やまつわった話が数多く残されています。

有盛神社には、薩摩藩の役人・田代清方(たしろきよかた)が航海安全を祈願したご神体(石造弁才天像)を寄進しています。

また、境内の奥地・丘陵の頂上付近には大島代官・肥後翁助(ひごおうすけ)が文化13年(1816)に寄進建立した平有盛の墓碑があります。

更に奥には、中世の山城跡と考えられる遺構(堀り切り等)が確認されています。

薩摩藩時代、大熊は主要港で鹿児島などへの寄港地でした。鹿児島へ行く場合、難所であったトカラ七島灘での航海安全を祈願するために、この浦上有盛神社に参詣する人が多かったようです。

田中一村終焉の地

田中一村は、明治41年(1908)栃木県下都賀郡栃木町に6人兄弟の長男として生まれました。本名は田中孝。父・田中弥吉は仏像彫刻家(号を「稲村」)。

幼少の頃から画才に秀で、大正14年に発刊された「全国美術家名鑑」に19歳で掲載され、日本画家として画壇にデビューします。

昭和30年(1955)、四国、九州を旅行し、種子島、トカラまで足をのばし、南海の自然に魅了されます。昭和33年(1958)12月、50歳のとき初めて奄美に来る。自らが信じる絵の道を極めるために奄美に移り住みます。

紬の染色工として生計を立て、蓄えができたら再び絵を描くという生活を繰り返します。

昭和52年(1977)9月11日、名瀬市有屋の借家で心不全で倒れ、生涯を終えます。(享年69歳)

昭和54年(1979)、名瀬市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」が開かれます。

昭和59年(1984)、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜-異端の画家田中一村」全国放映。以降、田中一村ブームが起こり、各地で展示会が行われます。

平成13年(2001)9月30日、旧奄美空港跡地(笠利町節田)に「奄美パーク」がオープン、「田中一村記念美術館」も併設されています。

芦花部一番バア加那の碑

江戸時代(薩摩藩治下時代)の頃の伝承です。名瀬市芦花部に「バア加那」という美人で評判の娘が住んでいました。

近隣の村々でも評判が高い娘であった、といいます。

ある時、笠利、龍郷方面での普請(ぶしん、共同作業)が終わり、クバヤという舟で競争をしながら帰途についていました。芦花部の沖に来たとき、美人で評判の高い「バア加那」を見て元気づいた一行は、再びクバヤを漕ぎ出しました。芦花部に上陸している間に相当の差をつけられていましたが、再び追いついた、との伝説があります。

お問い合わせ

教育委員会文化財課

894-0036 奄美市名瀬長浜町517

電話番号:0997-52-1111

ファックス:0997-53-6206